シュタイナーが目指した社会〜アントロポゾフィー協会と自由大学(2)

2、秘儀参入と市民権

シュタイナー思想に興味を持つ人は少なからず存在しますが、彼が生涯の最後に新しく設立したアントロポゾフィー協会に関心を寄せる人はそこまでいないでしょう。それはこの協会がどこか特殊で閉鎖的な印象を与えるからかもしれません。そして、アントロポゾフィー協会の中に存在する「精神科学自由大学」になると、大概の人はその存在さえ知りませんし、自分がそのメンバーになろうとはまず思わないでしょう。今日、アントロポゾフィー協会の会員に、さらには自由大学の会員にまでなる人の中には、身近にシュタイナー関係の人がいて、その縁で入会したり、あるいは神秘的なことや厳かなことがもともと好きで、いわば趣味的に入会したりする人もいます。シュタイナーが協会と自由大学に託した思いを理解して、いわば社会変革への連帯の意志を持って入会する人は、残念ながらまだそれほど多くはないと思います。

むしろ、現実の社会と関わり、実際の活動を通して変革を実現しようと努力している人の多くは、アントロポゾフィー協会のような組織からは距離を置こうとします。しかし、もしアントロポゾフィーの中に社会変革への可能性を見たのであれば、シュタイナー自身は社会三分節化運動が挫折した後、この協会を通して自分の目指す社会の実現に向けて、極めて実践的な一歩を踏み出したことを知ってほしいと思います。

今日、たとえばスイス・ドルナッハのゲーテアヌムのウェブサイトを開けば、協会や自由大学について詳しい説明を読むことができます。自由大学が教育、医学、農業、文学や舞台芸術、自然科学、社会科学など、11の部門からなり、世界各地とつながって活動を展開していることもわかるでしょう。けれども、結局は、アントロポゾフィーという興味深い思想が、さまざまな生活領域に応用されて展開しているのであり、この思想の普及に加わりたい人が協会や自由大学に参加するのだ、という印象を持たれると思います。

自分の関心が向かえば、シュタイナー教育や医学や農業を学び、シュタイナー学校や幼稚園の先生になったり、アントロポゾフィー医師になったり、バイオダイナミックの農家になったりもするでしょう。それだけでも十分に有意義なことですが、シュタイナーはさらにその先を願ったのです。それはアントロポゾフィーに関わる人々が相互に関心を寄せ合うことであり、そこから「アントロポゾフィーの社会」(anthroposophic society)を成立させることでした。ドイツ語や英語では、「協会」を意味するsocietyやGesellschaftという言葉が、同時に「社会」を意味します。シュタイナーが協会に託した思いは、アントロポゾフィーという特定の思想を深めたり、普及させたりするための組織をつくることではなく、アントロポゾフィーを通して本来の「公共性」を実現することだったのだと思います。そして、本来の公共性が実現するためには、一人ひとりの「個」が強められ、深められなければなりませんが、その役割を担うのがアントロポゾフィー協会の中心におかれる精神科学自由大学でした。そのようなシュタイナーの願いは、たとえば会則第3条の「アントロポゾフィーの成果は本当に友愛の上に築かれた社会生活へ導く」という言葉に現れています。

シュタイナーが構想した自由大学は、完全に公共的なあり方をしているアントロポゾフィー協会の中で、本来は個的で内面的な秘教性を担うものです。そこでの基本は一人ひとりが自分の内面を通して、霊的世界に向き合うことです。そこには修行の道があり、シュタイナー自身が自由大学会員に向けて行った19回(補講を含めると24回)の講義があります。けれども、社会形成という観点から重要なのは、この自由大学が「文化創造の源泉」であるということです。どのような芸術も、学問も、スポーツも、一人ひとりの個人の努力の積み重ねに基づいています。その意味で、精神科学における努力と、他の文化活動における努力とに本質的な違いはありません。

アントロポゾフィー協会の会則に「修行」(Übung)という言葉が出てくると神秘的な印象を与えますが、それはどんな分野にも必要な練習(Übung)と変わるところはありません。練習はどこまでも一人ひとりの努力にかかっています。あらゆる文化の創造的な源は、一人ひとりの人間の努力の中にあるのです。

精神科学自由大学は、第一に、アントロポゾフィーに関わる努力を厭わない人々が入会するところです。その努力は、一人ひとりの関心や傾向によって自然科学に向かったり、芸術に向かったり、スポーツに向かったりします。そのような専門分野を包括するものとして精神科学自由大学は構想され、いくつもの部門に分かれているのです。

精神科学自由大学では、完全な公共性を有するアントロポゾフィー協会の中で、一人ひとりが自由意志に基づいて入会することができる研究機関です。そこでは一人ひとりが自分の霊的探求の道において、霊的世界と向き合うことになります。一人ひとりが歩む内面の道は、もちろん極めてプライベートなものであり、それが公共の目にさらされることはありません。他方で、自由大学でシュタイナーが行った講義も、そこで行われる研究内容も公開され、その気になれば(つまり前提となる知識を事前に修得すれば)誰によっても理解されるものとなります。

シュタイナーが大学会員を対象に行った講義内容は、シュタイナーの死後しばらくは大学会員だけの間で受け継がれていましたが、インターネットの時代に入って公開を余儀なくされました。シュタイナーが公共性、公開性を強調したことは、時代の流れを予見していたともいえるでしょう。すべてが公開される時代の流れの中で、一人ひとりの内面をどのように守り、深めていくか、そして公共性と個人の精神性をどのようにつないでいくか。シュタイナーの自由大学と協会は、個人と社会、個と公共の関係に調和をもたらすための重要な試みであったと言えます。

それでは、シュタイナーはアントロポゾフィー協会の根本問題である、「もっとも開かれた公共性と、もっとも深い秘教性とを結合する」という課題に、どのように応えようとしたのでしょうか。それは、一人ひとりの中の主体的な決意にかかっています。つまり、「私たちはこの根本問題を私たちの心の中で解決しなければならない」(1923年12月26日の発言)のです。公開性と秘教性をつなぎ、個と公共の間に橋を架ける作業は、一人ひとりの個人の魂のなかで行われるのです。

シュタイナーは、「アントロポゾフィー協会には、通りを歩いてきた人がふらっと立ち寄って入会するので構わないが、自由大学に入会するときは十分に考えてほしい」と言っています。そして入会に際して3つの条件を挙げています。

  1. 世界を前にアントロポゾフィーを代表する意志があること。
  2. 瞑想的な修行の道を歩む意志があること。
  3. 自由大学の他のメンバーと連携する意志があること。

この2番目の条件は、スポーツ選手や演奏家の日々の練習や研究者の日々の実験や研究、記録と違うところはありません。第1の条件は、アイデンティティに関わることで、一般社会とのつながりに関わることです。ちょうどある国に生まれると、ほぼ自動的に国籍や市民権を取得することになりますが、海外を旅行したりすると、自分の行動が自分の民族を代表して見られていると感じることがあります。それは会社や学校のような組織でも同じことです。この第1の条件は、自分の行動やあり方が、世界から見たときにアントロポゾフィーを代表していることを自覚するということです。そういう自覚をまったく持たなくても、アントロポゾフィー協会の会員になることはできます。情報を得るため、自分の学びのために入会することはまったく問題ありません。けれども、しばらくすると、アントロポゾフィーには世界に対して、社会に対して果たそうとしている役割があることに気づきます。それを自分自身の問題と感じたとき、自由大学に入会するかどうかを考え始めます。

3番目の条件は、そのように決意して自由大学に入った人々が他にもいるのだと気づき、それらの人々とのつながりを意識することです。そのとき、シュタイナーがこの協会と自由大学に託した課題を、その課題に気づいた人々と共に担うことになります。その意志が問われているのです。

この関連で、秘儀参入と市民権という言葉について考えることができます。秘儀参入(イニシエーション)とは、意識的に霊界に参入することです。しかし、無意識的には、私たちはすべて霊界の市民です。考え、感じ、意志を働かせることはすべて霊的活動です。知っていてもいなくても、私たちは霊的な存在たちからインスピレーションを受け取り、さまざまな場面で守られています。その意味で、私たちは意識しなくても、霊界における市民権を持っていると言えます。

同様に、私たちはそれぞれが生まれた国で市民権を持っています。そして、意識せずとも憲法で保証されたさまざまな権利を行使しています。けれど、いつしか憲法について考えたり、世界における自分の民族の歴史について考えたりすることで、自分の社会における役割に気づき、それを意識的に果たそうとするかもしれません。それもまた秘儀参入(イニシエーション)だと言えます。精神科学におけるイニシエーションは、霊界との関連における自分の役割を意識し、それを引き受けることなのです。

そのように考えるとき、アントロポゾフィー協会の第4条は、協会と自由大学の課題を簡潔に言い表していることがわかります。

4、アントロポゾフィー協会は秘密結社ではなく、完全に公共的なものである。誰でも、民族、地位、宗教、学問的ないし芸術的信条の違いに関わらず、ドルナッハの精神科学自由大学としてのゲーテアヌムのような機関の存在に何か正当なものをみる人であれば、誰でもその会員になることができる。この協会は、いかなる分派的な努力も退ける。政治はその課題に含まれるものとはみなされない。

ここではアントロポゾフィー協会は完全に「公共的」なものであることが明記される一方で、自由大学については極めて緩やかな書き方がされています。つまり、協会員になる条件として、ただ「ゲーテアヌムの正当性を認める」というのではなく、「…のような機関の存在に何か正当なものをみる」という持って回った言い方がされているのです。

シュタイナーが重要視したのは、ゲーテアヌムという単独の機関そのものではなく、そのような機関がこの世に存在していることを正当とみるかどうか、ということだったわけです。その意味で、民族、地位、宗教、学問的ないし芸術的信条の違いにはかかわらない、というのです。極端な言い方をすれば、西洋であっても、東洋であっても、キリスト教でも、仏教やイスラム教でも、どんな文化圏においても、もしそこに精神科学自由大学のような学びと研究の場が存在していれば、それを正当なことと感じますか、ということです。もしそう感じるのであれば、アントロポゾフィー協会の会員になることができるのです。

そのように読んだとき、この条項が「この協会は、いかなる分派的努力も退ける。政治はその課題に含まれるものとはみなされない」という言葉で締めくくられる意味も理解できます。この言葉はまるで「アントロポゾフィーは政治には関わらない」かのように誤解されることがよくあります。しかし、協会内の個人やグループが政治的な立場をとったり、主張したりすることが妨げられることはありません。ここでは協会そのもののあり方を述べているのです。

何らかの思想的立場の主張や対立は、本来アントロポゾフィー協会の課題には含まれるものではありません。なぜなら、協会は社会そのものだからです。実際の社会では、ありとあらゆる人がそこに生まれ暮らしています。アントロポゾフィー協会という社会には、縁あってアントロポゾフィーと出会った人、「精神大学自由大学としてのゲーテアヌムのような機関がこの世に存在してもいいんじゃない?」と言える人たちが集まっています。そこでどういうあり方が正しいとか、何が間違っているとか言い立てる「分派的努力」は退けられます。

ここで重要視されているのは、自由大学というものが何を目指しているのか、そしてそれを可能にし、育成する公共的な環境としてのアントロポゾフィー協会とはどのようなものかということです。それでは、自由大学は何を目指しているかといえば、それは一人ひとりの個の中から汲み出される文化的な創造性であると言えるでしょう。

このことをより具体的に述べているのが、シュタイナーの『社会問題としての教育問題』という講演録です。ここではシュタイナーは、自分が学校設立を決意した理由として、ますます多くの人々が「自分は人生の中で何をしたいのかわからない」と感じるようになったからだ、と述べています。自分はどのように生き、この人生で何をなすのか、という意志は、単なる個人の問題ではなく、社会にとっての「資本」であるとシュタイナーは考えていました。何をしたいのかわからなければ、その人自身も主体的に生きることはできず、社会全体も活力を失っていきます。

そのことが会則の中では「道徳的、宗教的、芸術的な生命」(第2条)として述べられています。つまり、どんな価値観を持ち、何を信じてどのように創造的に生きるのか、ということです。それは自然科学だけでは基盤になりえず、一人ひとりの内面から汲み出されなければ発展しようのないものです。

そのように考えると、アントロポゾフィー協会が育成しようとする自由大学の営みは、「大学」とはいうけれど、実は保育園や幼稚園から学校、そして大学へとつながる「人間の知の営み」そのものであることがわかります。そこには、一人ひとりの主体性や創造性が育つためには、外なる感覚世界に目を向ける自然科学だけではなく、自分自身の内面を通して自己と世界を考察する精神科学を育成することが必要なのだ、というシュタイナーの信念が現れています。

そして、一人ひとりの魂の中で、自然科学と精神科学、あるいは個と公共に橋が架けられていくとき、「人間の共同生活における友愛」(第2条)も実現するというのです。その意味で、シュタイナーにとって、アントロポゾフィー協会と自由大学は、〜そしてアントロポゾフィーと出会った一人ひとりが自由大学とどう向き合うかは〜、社会変革への連帯につながる契機であり、彼の社会思想の核心であったといえます。