これからこのブログの中で、シュタイナー思想とは何か、またシュタイナーがアントロポゾフィー(人智学)と呼んだものとは何かをめぐって、今の自分の理解を書いていきたいと思う。
そこには主に二つの動機がある。
一つは、ぼくが園長を務めている幼稚園は、それ自体は「シュタイナー幼稚園」という名称を掲げないことを10年前に決めて、以来、地域の中の普通の幼稚園として歩んできたが、その園長自身は依然としてシュタイナー思想やアントロポゾフィーを自分の思想的な背骨として持っている。そのことは幼稚園のあり方に何らかの偏りをもたらさないのか。また園長が抱いている思想は一体どんなものなのか、という興味や疑問を保護者の方々が抱いたとき(そんな奇特な方は滅多にいないと思うが)、自分の現在の考え方をどこかにできるだけ率直に記しておきたいと思った。それをこのブログの中で行いたいということである。
もう一つは、ぼくは4年ほど前に一旦アントロポゾフィー運動から距離を置くことを決め、自分なりに新たな関わり方を探ってきた。最近になって、自分がこれから進みたい方向が見えてきたので、すでにこのブログにも書いたように、改めてシュタイナーが遺したアントロポゾフィー協会や自由大学という組織に対して積極的に関わることを決意した。その「これから進みたい方向」とは、改めて認識と理解に基づく関係を構築することである。つまり、人が不自由になるのは、本当には納得できず、理解できないときだろうと思う。シュタイナー思想をめぐるさまざまな団体や運動に不自由さがあるとすれば、それは紹介する側、伝える側、導く側が、本当に一人ひとりの認識を可能にする努力を怠っていたからだと思う。そこには当然、長いこと主催者や講師の側に立っていた自分自身への反省が含まれている。学ぶ側が本当に理解できたとき、その理解は自立や解放につながる。これはぼく自身が20年ほど前に『ゲーテからシュタイナーへ』という私家版の冊子の中で表明したことだったのだが、今、改めてその原点に還りたいと思う。そのために、自分の理解を提供することで、シュタイナー思想やアントロポゾフィーに関心を持った人が、そこからより自由に自分自身の思想を構築していく手助けができればと思ったのである。
具体的には、シュタイナーが1914年1月に行った『人間と宇宙の思考』という4つの講演を訳出しつつ、その内容について、解説を試みていきたい。これらの講演はシュタイナーがそれまでの『神智学協会』から離れ、独自に設立した『人智学協会』(アントロポゾフィー協会)の2回目の年次総会において行われた。したがって、シュタイナーとしては、それまでの神智学と、新たな人智学(アントロポゾフィー)との違いを明確にする意図を持っていたのではないかと思う。実際、これらの講演を通して、シュタイナーはアントロポゾフィーの「基礎」を語っている。そして「12の世界観」を提示して、本来どの世界観もそれぞれの領域においては正当なのだと述べている。問題は、一つの世界観をすべての領域に当てはめようとする場合であり、そこにおいて世界観は不自由な偏りを帯びることになる。その12の世界観の中には、唯物主義も精神主義も含まれる。ここでのシュタイナーの考え方をたどることで、シュタイナー自身が目指した「人間の思考」すなわち「人間の知」のあり方が彼自身の言葉で語られている。ちなみに、アントロポゾフィーとはまさに「人間の知」を意味する言葉である。
これらの4つの講演のタイトルである『人間と宇宙の思考』はシュタイナー自身によるものだということだが、そこには後にシュタイナーが示したアントロポゾフィーの定義、「アントロポゾフィーは、人間本質の中の霊的なものを宇宙における霊的なものへ導こうとする一つの認識の道である」(Anthroposophie ist ein Erkenntnisweg, der das Geistige im Menschenwesen zum Geistigen im Weltenall führen möchte)がそのまま先取りされていると思う。
ここでの「霊的なもの」という言葉に、大概の人はまず引っかかるだろう。これらの4つの講演ではまず思考と霊的なものとの関係を取り上げている。ただ、すでにシュタイナーの考え方に馴染みのある「会員たち」を相手にした講演なので、特殊な言葉遣いが断りなしに出てきたりするが、それでもシュタイナーがアントロポゾフィーの目指しているところを語っている講演としては貴重なものだと思う。だから、できるだけシュタイナーに馴染みのない人にもわかってもらえるような解説を試みながら、彼の思想が今の日本で意味を持ちうるかを、これを読んでくれる人と一緒に考えられたらと願っている。
もう一つ、日本で生活している人にとってピンとこないだろうと思うのは、「神」をめぐる切実さである。最初の講演の中で、シュタイナーは西洋哲学史の中の「神の存在証明」について語っているが、これを読むと改めて、シュタイナーが西洋文化の中で考え、語っていたことが感じられる。以前、心理学者の河合隼雄さんの本を読んでいて、西欧の一神教の人々が持つ孤独感や厳しさはアジアの人々には想像できないものがあるというようなことが書かれていたのを思い出す。唯一絶対の神と対峙し、その神が存在するか否かが、本当に生死に関わるような問題であった西洋文化の文脈で、シュタイナーはアントロポゾフィーを提示した。だとすると、日本文化の中にシュタイナー思想を持ち込むことは意味がないようにも思われるが、この講演の中でシュタイナーは「思考においてつねに重要なのは、その思考がつかみとられた状況に注意を向けることです」と語っている。これはシュタイナー自身の思想にも言えることだろうと思う。シュタイナーがアントロポゾフィーを「つかみとった」状況にも目を向けつつ、その普遍性を考えてみたいと思う。
まずはこれから4つの講演を随時訳出し、期限付きでこのブログにPDFを公開していくことにする。難解に思われる方も多いと思うが、これからその内容についていろんな角度から解説を試みていくので、もしご関心のある方はお付き合いいただければ幸いである。ただし翻訳は試訳の段階なので、個人で取り組む以外の利用をされる場合はコメント欄に一言ご連絡をいただけるとありがたいです。(最初の講演のPDFはこちらから)