艾未未氏のドイツとの決別からメルケル首相の演説を思う

with 1件のコメント

ドイツ・ベルリン在住のアーティスト、艾未未(アイ・ウェイウェイ)氏が、ドイツを離れる意志を表明したというニュース(8月9日付『ヴェルト』)に、心を揺さぶられている。

時事通信によれば、艾氏はこう語ったという。

「ドイツは開かれた社会でいようとしているが、自己弁護の傾向がある。ドイツ的文化が強過ぎ、真の意味で他の考えや議論を受け入れない」

「開かれた議論の余地や、異なる声への尊重がない」

(https://www.jiji.com/jc/article?k=2019080901198&g=int)

早速、ドイツのメディアでは、これに対するさまざまなコメントが飛び交っている。

どのように考えるにせよ、確かなのは、艾未未氏に移動を決意させるほどの変化が、今のドイツに起こっているということだ。

暗い気分の中で、ドイツの公共放送ZDF(第2ドイツテレビ)のアプリを開くと、「7月20日追悼式」のライブ中継の動画が目に入った。

1944年7月20日の「ヒトラー暗殺未遂事件」に連座して処刑されたシュタウフェンベルク伯爵をはじめとする首謀者たち、ナチス抵抗運動を追悼して、毎年、ベルリンの抵抗博物館の中庭で、連邦大統領や首相が出席して行われる記念式典。

誠実で地味な演説と音楽が続く60分余りの追悼式の模様が、公共放送でそのまま中継されることに改めて感心した。この式典での演説は、ドイツのアイデンティティーと結びついているからだろうか。

日本では、広島と長崎の原爆死没者・犠牲者慰霊・平和記念式典の模様さえ、テレビではすべては放映されない。今年の安倍首相の挨拶は、広島と長崎のいずれも主要部分が「コピペ」のように同じ文言だったことが指摘されたが(https://www.kantei.go.jp/jp/98_abe/statement/2019/index.html)、おそらく日本政府にとっては、ヒロシマ・ナガサキが日本のアイデンティティーを形成しているという認識はないのだろう。

ヒトラー暗殺事件から75年目の追悼式では、メルケル首相の演説が重く響いた。それが自分自身に問いかけるような内容だったからだ。

「ヒトラー暗殺計画の失敗から75年、私たちは1944年7月20日の抵抗運動に関わった女性たち、男性たちを最大の敬意をもって追悼します。他の人々が沈黙しているとき、彼らは行為しました。他の人々が目を背けているとき、彼らは自分の良心に従い、彼らの、そして私たちの国のために責任を引き受けました。非人間的な機構に立ち向かったのです。」

「しかし、どのようにして一人の人間が、非人間的な、しかし確実に強大な機構に立ち向かうことができるのでしょうか? どのようにして一人の人間が、もっとも深い闇の中で人間性の光を灯し、他の人々を照らすことができるのでしょうか?」

「私たちもまた、人間性、権利、民主主義のために身を投じているでしょうか? それともすべてを自明のこととして受け取り、そうしたことは別の人たちが対処してくれると考えることで納得しているのでしょうか? 自分が反ユダヤ主義や人種主義、侮辱や憎悪の目撃者となったとき、私たちは市民としての勇気を奮い立たせるでしょうか? それとも面倒なことになるかもしれないからと、そこから目を背けようとするのでしょうか?」

「民主主義のもとにある市民として、私たちには義務があります。その義務に含まれるのは、政治家や名誉職にある人々が、公共の責任を引き受けるとき、それによって身体や生命を脅かされずに済むということです。私たちの義務に含まれるのは、ユダヤの人々がドイツの都市で心配せずにキッパをかぶることができるということです。私たちの義務に含まれるのは、人々が、他の人々の見かけが違う、言葉が違う、あるいは違う意見を持っているだけで、その人々を攻撃するように煽るとき、それを許容しないということです。私たちの義務に含まれるのは、過激主義者たちが人々を脅迫したり、傷つけたり、ましてや殺害したりするとき、私たちの法治国家の手段をもって、首尾一貫した態度で刑事訴追するということです。」

「そして、私たちの義務に含まれるのは、私たちの歴史についての知識が色褪せないようにするということです。この知識と、そこから得られる教訓は、すべての世代によってふたたび新たに取り組まれなければなりません。私たちは学校で、大学で、博物館や記念館で、未来においてもそのことに配慮していかなければなりません。7月20日は、クラウス・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク伯爵、ヘニング・フォン・トレスコウ、白バラ、ユリウス・レーバー、ワルシャワ蜂起、ーそのすべては未来の世代にもよく知られた史実として受け継がれなければなりません。」

「私たちはこの義務を引き受けようではありませんか。小さなことにおいても、大きなことにおいても。抵抗運動に関わったすべての人々への追悼の思いを保持し、自由で平和な共同生活のために自分自身を強めることによって、彼らを讃えようではありませんか。目を背け、沈黙する代わりに、市民としての勇気を奮い立たせ、普遍的な価値観を守ることによって、抵抗運動を戦った人々に敬意を表そうではありませんか。自分の利益だけをみる代わりに、共に力を尽くそうではありませんか。私たちの法治国家の民主主義を強め、守り、そこに共に集おうではありませんか!」

移民問題に揺れる欧州で、まもなく首相の座を去るメルケル氏が、ドイツのアイデンティティーを表明するとされるこの伝統的な演説において、これらの言葉を語ったことを深く受けとめたいと思う。

艾未未氏が「ドイツは私を必要としていない」と言って離れようとしているのは、このドイツなのだろうか。それとも、メルケル氏が去った後に予期されるドイツだろうか。

この演説の後、7月30日にはフランクフルト駅で8歳の子どもとその母親が線路に突き落とされ、子どもが列車に轢かれて死亡するという悲惨な事件が起こった。突き落としたのがアフリカのエリトリア国籍の人物だったために、移民問題と関連づけられ(実際にはドイツではなくスイスに13年住み、模範難民とされていた人だったが)、メルケル氏がいわれのない攻撃を受けた。右派政党とされるAfD「ドイツのための選択肢」の女性議員は、あまりにも酷いツイートを流した。「メルケルさん、…あなたの誕生した日を呪います!」

このツイートは激しく批判され、削除されたが、ここに艾未未氏がドイツを離れようとした何かが潜んでいるような気がしてならない。そして、それは日本の現状にもつながっている。

7月20日のメルケル氏の演説が掲げたドイツの未来は、ドイツだけでなく、日本や米国の人々によって共通の未来として、守られていくべきものなのではないかと思う。

One Response

  1. KENJI SUGIHARA
    |

    シェアさせていただきます。
    メルケル首相の言葉は、日本人にとって大切なメッセージです。たくさんの人に読んで欲しいです。