シュタイナーが目指した社会〜アントロポゾフィー協会と自由大学(1)

シュタイナーが目指した社会 ーアントロポゾフィー協会と自由大学ー

1、社会における個と公共

2、秘儀参入と市民権

3、言語による社会形成

 

1、社会における個と公共

これから3回に渡って、シュタイナーの社会思想が最も具体的な形で結実したもの、あるいはシュタイナーの社会思想の集大成こそが彼が晩年に遺したアントロポゾフィー協会と精神科学自由大学だったのだということを述べていきたいと思います。

シュタイナーの社会思想というと、いわゆる社会三分節化運動が知られていて、シュタイナー学校もこの社会運動の一環として誕生したわけですが、アントロポゾフィー協会や自由大学がその延長にあるということは、まだ十分には意識されていないような気がします。むしろ、アントロポゾフィー協会と言うとシュタイナー思想を信奉する人々の集まりであるとか、自由大学はアントロポゾフィーを非常にマニアックに研究する機関であるといったイメージで捉えられることが多いと思います。けれども、このアントロポゾフィー協会が設立された1923年のクリスマス会議で、シュタイナーはその会則を定め、その第一条で次のように述べています。

1、アントロポゾフィー協会は個々の人間における、また人間社会における魂の営みを霊的世界の真の認識の基盤の上に育成しようと欲する人々の集まりである。

さらに第三条では、

「…ゲーテアヌムにおいて育成されているアントロポゾフィーは、民族、地域、宗教の違いに関わらず、全ての人間の中で精神生活への刺激として仕えることのできる諸成果へと導くものである。それらの成果は本当に友愛の上に築かれた社会生活へと導くことができる…」

と述べられています。

つまり、その第一条には、この協会が個人と社会における魂の営みの育成を中心に据えていることが明記されています。そして第三条では、アントロポゾフィーの成果は「本当に友愛の上に築かれた社会生活」へ導くものであることが強調されています。ここからもアントロポゾフィー協会が特定の思想を信奉したり、普及したりするための機関ではなく、人間社会の形成に深く関わろうとしていることがわかります。

シュタイナーにとって、社会形成における最も重要な課題は、個と公共の関係でした。この二つの原理は、今日でも強く対立する心性として政治的な議論のなかに現れてきます。例えば、自民党の人々が家族や民族あるいは公や国家というものを強調し、憲法改正案の中で、「全て国民は個人として尊重される」という文言から「個」を抹消し、「全て国民は人として尊重される」と言い換える中には、公共の側に大きく傾いた心性をみることができます。他方で、首相個人の思惑から一部の学校法人に便宜を図ったり、官僚の発言がそれによって統制されるような事態の中には、個に大きく傾いた政治のありようがみえてきます。しかし当然のことながら、ここでの問題は個と公共の原理が、それぞれ純粋に追求されることなく、またしっかりと考え抜かれることもなく、一部の人々の恣意的な思惑によって利用されていることにあります。ただ社会における歪みは、決まって個と公共という対立概念の関係の中で生ずるということです。

シュタイナーは、若い頃から一貫してこの問題と取り組んできました。そして第一次世界大戦を過ぎた頃(1917年ごろ)から、身体の三分節を通してこの問題に、二項対立的にではなく、その間をつなぐ第三の要素を加えて、いわば弁証法的にアプローチするようになりました。

つまり、神経系が集中する頭部と、代謝系が集中する下腹部や四肢との間に、心臓や呼吸器からなるリズム系が仲介するという人体のイメージをもって、個と公共、個別と普遍、精神と物質、感覚と運動といった対立軸を調和させようとしたのです。このイメージを社会に当てはめたとき、精神生活(文化)、法律(政治)、経済生活という社会三分節が現れます。

従って社会三分節思想を理解するためには、その出発点に個と公共の対立をいかに調和させるかという問題があったということを踏まえなければなりません。精神生活や文化の領域では、一人ひとりの個人の創造性が問われます。そこは自由の領域です。もしアーティストや研究者が、自分自身の興味や内発的な衝動ではなく、企業や国家の思惑に従っているとすれば、本当に創造的な文化は生じえないでしょう。そこでは金子みすゞさんが詠んだように「みんな違ってみんないい」ということが文化の原動力となるのです。

しかし法律の領域では、みんなが違って扱われることはできず、「法の下での万人の平等」が基本のルールとなります。そこは自由ではなく平等の領域であり、人間は個性の違いにはかかわりなく、同じ市民として対等に等しく扱われます。そこが公共の領域であり、国家はこの公共性を保障するために存在します。しかし、公共であるはずの国家の中に、一部の個々の人々の思惑が入り込んでしまうと、その国家が権力として個人を抑圧する場面も出てきます。そのように考えると、個と公共はそれぞれ異なる対立的な原理として切り離され、純粋に保たれることによって機能すると言えます。

そして、本来の経済は文化と国家、あるいは個と公共の間に働いて両者を関係づける働きであるとみることができます。そこにシュタイナーが経済は「友愛の領域」だと言った意味があります。この「友愛」は慈善や優しさを意味するだけの言葉ではありません。むしろ関心を寄せ合うこと、心を通わせるということです。経済活動とは、異なる才能を持ち、異なるニーズを持っている人々がお互いを感知し合う領域であると言えます。いかに独創的な活動を行っていたり、栄養に富んだ食品を生産していても、それを認めたり、必要としてくれたりする人と出会えなければ、その活動そのものが存在することができません。シュタイナーはこの、相互に認め合う経済のあり方を友愛と呼んだのだと思います。

ここで、アントロポゾフィー協会の会則に戻るならば、「アントロポゾフィーの成果は本当に友愛の上に築かれた社会生活へ導く」という言葉に行き当たります。つまり一方では独創的な個人の活動があり、他方では真に平等な社会があり、その間でお互いを認め合う循環が生じている社会のあり方をこの協会は示そうとしているのです。

次に魂という言葉があります。

「アントロポゾフィー協会は、個々の人間における、または人間社会における魂の営みを霊的世界の真の認識の基盤の上に育成しようと欲する人々の集まりである。」

これは実のところ何を言わんとしているのでしょうか?

重要なのは、個人においても人間社会においても「魂の営み」が中心に置かれているということです。魂とは霊・魂・体と言ったときの真ん中に置かれる要素、言わば間をつなぐものです。個と公共のように、片方に個人の内面に広がる霊的世界があり、片方に感覚の外に広がる物質的世界があります。その間に立つ人間は、自分自身を魂として意識します。

シュタイナーはアントロポゾフィー協会の「礎石」を物質の石ではなく、詩のような言葉で表現し、それをクリスマス会議に集まった800人余りの人々の心に沈めたのですが、この「礎石の言葉」では「人間の魂よ」という呼びかけが繰り返されます。つまりアントロポゾフィー協会がその基盤としているのは人間の魂なのです。そして、この協会が目指しているのは、個人と社会における「魂の営み」を育成することであり、どのように育成するかと言えば「霊的世界の真の認識の基盤の上に育成しよう」とするのです。

この霊的世界という言葉も個と公共の文脈の中で捉える必要があります。ただ単に目に見えない世界とか、神秘的な世界ということではなく、人間の魂が身を置く対立軸の一方の側ということです。それではもう片方の側には何がくるのかと言えば、そこには人間社会そのものが、あるいは個と対立する公共がくるのだと言えます。

人間社会にとって公共の基盤となるのは、通常、物質の世界です。それは私たちの感覚の外に広がる世界であり、そこでは私たちは交通機関や水道電気から、道路や建物など、ありとあらゆる物質を共有して社会を成り立たせています。つまり通常、霊的世界は「個」の側にあり、感覚的世界(物質的世界)が公共の側にあります。

シュタイナーはクリスマス会議の中で、次のように述べています。

「…(私たちの協会の)会則は一つの必然性として発生するものですが、その内容から、わたし達はアントロポゾフィー協会に完全な公共性を結びつけなければならないことが見えてきます。これは、私の愛する友人の皆さん、現在の時代の徴のもとに、それ以外のあり方はできないのです。なんらかの秘密めいたものに潜り込むことは、今日の時代にとって、もはや許容されることではないのです。そして、そこから、私たちにとっての、いわば根本問題が発生します。私たちはこの根本問題を解決しなければならないのです。」

この根本問題とは何でしょうか? シュタイナーは、この根本問題は議論によってではなく一人ひとりの心の中で解決されなければならないものだ、と言って、次のように表現しています。

「いかにして私たちは完全なる公共性を、最も深く最も真剣で最も内面的な秘教性と結合するのか?」

この秘教性という言葉は公教に対する秘教という意味で、どんな宗教にも、すべての人に開かれた公の教えがある一方で、選ばれた人、準備のできている人だけに与えられる「秘密の教え」があります。ユダヤ教にはカバラがあり、イスラム教にはスーフィーがあり、仏教には密教があるように、どんな宗教にも公教と秘教があるのです。

しかし今日、何らかの団体の中で、その参加者に区別を立て、秘密の教えを伝授する人々と、伝授しない人々とを分け隔てることは、もはや現代という時代にふさわしいことではないとシュタイナーは考えました。それでは、その区別の中に、なんらかの個人の恣意的な思惑が入り込む危険があるからです。

協会をつくるのであれば、情報はすべての人によって共有されなければなりません。しかしそれでは本当に真剣な霊的探求は同時にすべての人によって共有されうるのでしょうか? シュタイナーにとってそれは単なる宗教的な問いではなく、個と公共、あるいは民主主義とスピリチュアリティといった対立概念につながるものとして、社会形成の根本問題でした。そしてそれは一人ひとりの心の中で解決されなければならない、と言ったのです。

文化における創造性が一人ひとりの個人に属するように、霊的探求は文化活動の最たるものであると言えます。どの宗教を信ずるか、そもそも宗教を信じるのか、どんな思想を抱くのか、それは一人ひとりが心の中で決めることであり、同時に複数の人々によって共有できることではありません。それを無理に団体で共有しようとすれば、これまでに多くの宗教団体や政治団体で悲劇が繰り返されたように、個人が抑圧される結果につながります。

シュタイナーは、個と公共というときの「個」を突き詰めれば、それは霊的探求である、もしくは「霊的世界の認識」であることを明らかにしようとしています。私たちは皆、自分はどこから来てどこへ行くのか、自分は何者なのか、という問いを抱いて生きています。私たちの人生は、この問題を解決するための旅路であるとさえ言えるでしょう。しかし、その答えはだれかが与えてくれることはありません。自分で見いだすことしかできないのです。霊的探求の道は果てしなく孤独な道なのです。

ここで確認する必要があるのは、アントロポゾフィー協会の目標は「霊的探求」ではない、ということです。それはあくまでも一人ひとりの自由に委ねられています。この協会の目標は個人と社会における「魂の営み」の育成なのです。

人間の魂は一方では感覚器官を通して外界と向き合い、他方では内面の思考、感情、意志を通して目に見えない世界、霊的世界と向き合っています。それがまさに霊・魂・体ということであり、精神と物質の間に位置する魂ということです。人間は、感覚で知覚できる世界については、その客観的な記述方法、研究方法として自然科学を発達させてきました。したがって、自然科学は現在の人間社会の公共を成り立たせている共通の基盤になっています。私たちは意識するとしないとにかかわらず、自然科学の認識にもとづいて社会を形成し、その認識を共有しています。

その一方で、私たちが内面において向き合っている霊的世界については、あくまでも個人の信仰や信条の問題とされてきました。霊的な領域については、社会的に共有できる記述方法や研究方法を考えることはなかったです。

そこにシュタイナー思想の新しさ、独自性があると言えます。シュタイナーが試みたのは、自然科学に対置される「精神科学」という言い方で、個人の内面に広がる霊的世界もまた、他の人々に共有され、理解されうるような仕方で記述され、研究される可能性を示すことでした。そのように、シュタイナーが精神科学を提示した根底には、宗教やスピリチュアリティというものを単に個人の問題にとどめず、社会形成を考える上でのもう1つの基盤として捉えたということがあるのです。

このような言い方は、最近では「疑似科学」という批判を招きかねないものですが、いわゆる疑似科学との一番の違いは、シュタイナーは自然科学の枠組みの中に霊的なものを入れ込もうとしたのではないということです。個と公共がそれぞれ独立した領域でなければならないように、自然科学は、純粋に感覚で捉えられる領域、あるいは物質の領域を研究し、そこに個人が捉える霊的なものを持ち込むことはありません。その一方で、個人が向き合っている霊的世界にも、共通の理解に到ることができるようなアプローチ、研究方法があるのではないか、ということです。

それによってシュタイナーは個と公共にもう一つの次元を与えたのだと言えます。今の社会は、感覚によって捉えられる自然科学を共有の基盤としています。そこに公共性の根拠があるのです。しかし、反対に「個」の領域においては、共有の基盤がありません。ところが、一人ひとりの個人が自分の内面を通して向き合っている世界もまた、感覚界と同じように、すべての人々と共有される普遍的な世界かもしれないのです。だとすれば、その普遍的世界、霊的世界を記述、研究する手段もあってしかるべきです。それがシュタイナーのいう精神科学です。

個と公共が対立する原理でありながら、お互いを必要としているように、自然科学に対置される精神科学が確立されることによって、社会の基盤としての「科学」は完成されるのではないかということです。そして、自然科学と精神科学、個と公共をつなぐものとして、シュタイナーは「魂の育成」を掲げたのです。

ここで、もう一度、アントロポゾフィー協会の会則第一条をみてみましょう。

1、アントロポゾフィー協会は個々の人間における、また人間社会における魂の営みを霊的世界の真の認識の基盤の上に育成しようと欲する人々の集まりである。

ここには、アントロポゾフィー協会に集う人々の「意志」(Wille)が、「欲する」(wollen)という言葉で表現されています。つまり、こういうことだと思うのです。シュタイナーをはじめとする人々は、個人の人生においても、また人間社会そのものにとっても、霊的世界の真の認識すなわち精神科学を基盤として「魂の営み」を育成することが必要だと考えた。そのために、まずはアントロポゾフィー協会という協会をつくり、その中で自分たちが目指していることを実践してみよう、と。つまり、アントロポゾフィー協会とは、自分たちが社会変革に必要だと考えていることをまずは自分たち自身の足元で実践していこうという、実践の場、修行の場(Übungsfeld)であったのだと思います。そこでこのアントロポゾフィー協会を本当に完成させることができれば、それは人間社会そのもののモデルとして、人類の社会の中に受け入れられていくだろう。それまで自分たちが目指す社会のありようを、まずはこの協会の中で実現し、それを人類全体にみてもらおうというということです。

シュタイナーの社会変革への最初の試みであった社会三分節化運動は、一定の広がりを見せましたが、その後挫折しました。シュタイナー学校がその積極的な副産物であったことはよく知られていますが、シュタイナー自身は「人類は社会三分節化を受け入れる用意がなかった」という言葉で、この運動が実を結ばなかったことを認めています。しかし、クリスマス会議におけるシュタイナーの言葉からは、彼は社会変革をあきらめたのではなく、より強い決意をもって一歩先に進んだことがうかがわれます。

「愛する友人の皆さん、私たちはあの過酷な戦争の時期に、さまざまな困難と障害を経験しました。そして、内面においても数多くの困難を経験しました。そこにおいて私たちは、この問題があらゆる角度から立ち上がってくるのを体験したのです。…すなわち、いかにして私たちは完全なる公共性を最も深く、最も真剣で、最も内面的な秘教性と結合するのか、という問題です。」

この「完全なる公共性を最も深く、最も真剣で、最も内面的な秘教性と結合する」という根本問題に応えようとしたのが、シュタイナーが1923年のクリスマス会議で新たに設立した「普遍アントロポゾフィー協会」でした。その2年後に彼はこの世を去るわけですが、私たちは現在にまで引き継がれるアントロポゾフィー協会の中に、彼が私たちに託した遺言、遺志を見ることができます。私たち一人ひとりは、今、シュタイナーの遺志にどのように向き合おうとしているのでしょうか?