言語による社会形成
これまでの2回は、シュタイナーの社会三分節化思想が結実したものとしてのアントロポゾフィー協会と精神科学自由大学について書いてきました。いわば結論に当たる3回目では、ぼく自身の人生の中で、このテーマに関してどのような試みを行ってきたか、そして今さらにどういう一歩を踏み出そうとしているのかを述べたいと思います。この文章は、それらの試みに関わり、応援してくださった方々のことを思いながら書いています。実際にその方々の目に触れるかどうかはわかりませんが、自分が今ここに存在しているのは、その人たちとの出会いに恵まれたからだと思っています。
アントロポゾフィー協会との最初の出会いは、ぼくの父親を通してでした。13歳か14歳の頃だったと思いますが、父が日本におけるアントロポゾフィー協会の設立を真剣に考え始め、今は別れ別れになってしまっている方々と、鎌倉で準備会を始めました。何人かがその時に父を通してアントロポゾフィー協会(人智学協会)への入会申し込みを行い、ぼくもそこに加わったのですが、会員証が送られてきたとき、そこにぼくの分はなく「息子さんに関しては、成人になるまで待ってください」と書かれていて、涙したのを覚えています。その後、ぼくは海外に留学し、戻ってきた頃には設立の話がかなり具体化していました。しかし、その間に仲が良かったはずの人々が別々のグループになっていて、日本人智学協会の設立集会には、以前の父が『神智学』や『いかにして…』の「訳者あとがき」には「畏友上松佑二氏に感謝する」とまで書いていた上松さんが招待されておらず、そのことに驚いたゲーテアヌム筆頭理事のマンフレッド・シュミット=ブラバント氏が、父を事務総長とする任命を取り消し、「日本にはまだ邦域協会は存在しない」という事態に発展しました。
この頃にひとつ記憶に残っているのが、父がぼくに「ヘラ・ヴィースベルガーという人の書いた解説を読んで考え込み、夜眠れなかった」と言っていたときのことです。ヴィースベルガーさんは父が訳した『アカシャ年代記』(国書刊行会)にあとがきを寄せてくれた人で、長いことゲーテアヌムと対立する流れを形成していた「遺稿管理局」の代表者の一人でした。シュタイナー夫人としてシュタイナーの著作権を受け継いだマリー・シュタイナーの流れを汲む人たちで、シュタイナー全集はすべてこの遺稿管理局が編纂し発行しています。ヴィースベルガーさんも、数多くの講演集の編纂に関わり、特にシュタイナーの「エソテリック」(秘教的)な活動や講義内容に造詣の深い人でした。このとき、父は「エソテリック・スクール」の文献を収録した本にヴィースベルガーさんが書いていた解説を読んでいたのです。
そこには「シュタイナーは最初のアントロポゾフィー協会には霊的指導者として寄り添い、組織の会員にはなっていなかった」ということが書かれています。精神運動と世俗的な組織運営とはまったく異なる原理に基づいているため、精神運動を導く指導者がその組織に加わることは霊的法則に反するというのです。しかし、クリスマス会議では、シュタイナーは新しく設立したアントロポゾフィー協会の会長に自ら就任します。その決意が正しいのか、霊界からどのように受け取られるのかがわからない中で、彼は敢えて自分の身をもって「世俗的組織」と「精神運動」とを統合したという話です。これに先立って、シュタイナーは自分の真意を理解してくれない協会員たちに絶望し、すべてを解消して一握りの人々と地下に潜ることさえ考えていたと言われますが、結局、彼はその人々とともに一歩前に踏み出すことを決意したわけです。それがクリスマス会議でした。シュタイナーは、もしこの決意が間違っていたら、それまで自分に与えられていたすべてのインスピレーションが途絶えることも覚悟していたといいます。しかし、結果として霊界は彼の決意を受け入れ、それまで以上の啓示とインスピレーションが訪れて、その後の2年間、シュタイナーは現在のアントロポゾフィー運動の基盤をなすカルマ論、医学、治療教育、演劇、そして自由大学の講義を集中して行い、イタ・ヴェークマンとの共著『アントロポゾフィー医学の本質』も書き上げて、この世を去ることになります。
この時の父の話はとても印象に残り、これまでの2回の文章にも書いたように、自分自身でも何度となくこの問いに向き合うことになりました。
この日本人智学協会が設立された当初、ぼくは他の人々とともに改めて入会の申し込みを行い、父とシュミット=ブラバント氏が署名したピンクの会員証を手にしていました。しかし、それは父への絶対的な信頼のもとへの入会という感じで、協会の意義やそこにまつわる様々な問題についてはまったく意識していませんでした。その後、父や彼のグループの人々とシュミット=ブラバント氏やゲーテアヌムの人々との間で何度も話し合いが行われましたが、ぼくは段々にそこから離れていきました。それはまったく別の要素、いわば家族問題から、父に対する信頼を失っていったことによるものでした。その頃、ぼくは親と距離を置くために、鹿児島に住むようになっていたのですが、久しぶりに東京に出てきた時に、ちょうどシュミット=ブラバント氏とバージニア・シーズ氏のお二人が日本のすべての協会員と会合を持ちたいという呼びかけがありました。1993年のことでした。ぼくは最初はあまり関心がなかったのですが、夢を見て、なぜかこれは行っておいた方がよいという気持ちになり、久しぶりにシュタイナー関係の人々の会合に参加しました。そこに父の姿はありませんでしたが、父の側のグループと上松氏の側のグループの人々が参加し、あまり議論が噛み合っていなかったことを覚えています。しかし、ぼくはそこで改めてアントロポゾフィー協会の「起源」に関心を持ち、その設立集会であるクリスマス会議の議事録が本として出版されていることを知りました。その本を読んだことが、ぼくのそれまでのシュタイナー理解を180度変えてしまいました。
それまでぼくは、アントロポゾフィーをすべて父から学んだと言ってもよく、シュタイナーの本もすべて父の翻訳で読んでいたのですが、この時初めて直接ドイツ語でシュタイナーの言葉に触れたのです。それまで、ぼくはシュタイナーという人は、師と弟子という関係や選ばれた人々に秘儀を伝授するといった傾向のある人だと思っていました。ところが、クリスマス会議での彼の語りかけをみると、その意識は極めて現代的で民主的であり、時代を大きく先取りしていたことが分かります。たとえば彼は、アントロポゾフィー協会は誰かが頭で思い描いた設計図によってではなく、具体的な人間が基盤にならなければ成立しない、と言います。そして、「将来における私たちのすべての集会を、”団体的” と呼びうるすべてのものから引き上げることが必要です。アントロポゾフィーは通常の言葉の意味での”団体性”を必要としないのです」と語ります。しかし、もしアントロポゾフィー協会が通常の意味での「団体」ではないとしたら、それは何なのでしょうか?
シュタイナーは、つねに実際の人々の中に生きている意志を感じ取り、その意志の上に協会を構築していこうとしていました。たとえば別の講演集ですが、クリスマス会議と同じ年に行われた『アントロポゾフィーの共同体形成』という講演録では、「アントロポゾフィー協会は設立することはできません。《発生》することしかできないのです」と述べています。具体的な人々によるアントロポゾフィーとの取り組みがあるとき、それらの人々を基盤として発生するのがアントロポゾフィー協会であり、設立の意図をもって集まった人々が人為的に設立するようなものではないというのです。その態度は首尾一貫していて、一人ひとりの個人の最大限の自由と、一人ひとりの内側にある必然的な衝動を基盤に、今までにないような新しい組織を生み出そうとする意気込みが、一週間かけて行われたクリスマス会議における彼の講演と、参加した会員たちとの丁寧なやりとりの中から伝わってきます。これを読んだとき、ぼくはまずはシュタイナーがアントロポゾフィー協会に託した思いを受けとめ、その上で日本でアントロポゾフィーに取り組む人たちの意識の中からどのような組織形態が浮かび上がってくるのかを見るべきではないのか、そのほうがシュタイナーの思いに応えることになるのではないか、と考えました。
そしてシュミット=ブラバント氏との話し合いで知り合った何人かの人たちとともに、クリスマス会議の読書会を始めました。そこから浮かび上がってきたのが「シュタイナーの庭」というイメージでした。クリスマス会議を読んで感じたのは、シュタイナーは「会長」になることですべての責任を一身に引き受けたけれども、本来のアントロポゾフィー協会の形態は、シュタイナーの死後、いわば「中心」が失われたところに見えてきたのではないか、ということでした。実際のアントロポゾフィー協会の歴史の中では、この時点から様々な対立と分裂が始まり、長年に渡って癒えることのない傷跡を残したのですが、シュタイナー亡き後の中心を失ったアントロポゾフィー協会のイメージは、当時ぼくが読んでいた河合隼雄さんの「日本人の意識の中空構造」を思い起こさせました。これは河合さんが日本の古事記を読み解く中で提示したイメージで、日本には西洋と違って中心となる絶対神がいないかわりに、対等な神々が緊張感をはらんで円をなして向き合っているというのです。この中空構造は一人ひとりの意識が集中している間は保たれますが、どこかで緊張が解けると異質なものが素早く中心を奪い取ってしまう危険がある、と河合さんは言っています。
ぼくはシュタイナーが考えたアントロポゾフィー協会も、その中心は一人ひとりの内面にあり、だからこそ具体的な人間を基盤に協会が成立すると言ったのではないか、と思いました。そこで日本でアントロポゾフィー協会が設立されるとすれば、ただ誰かが代表となってシュタイナーの思想を教え、ヨーロッパの形式をそのまま持ってくるのではなく、一人ひとりの参加者が同時に主宰者であり、一人ひとりが中心である、そういう場をつくれないだろうかと考えました。それは組織というよりは「庭」に近いもので、参加者の個性によって、大切にされるのは野菜の栄養であったり、果実の甘さであったり、観葉植物の美しさであったりします。けれど、それぞれの個人が自分の知恵と経験を持ち寄って、様々に異なる植物を育てながら、それらの優劣や正しさを問題にするのではなく、お互いの存在を愛で合うという場のあり方が、クリスマス会議におけるシュタイナーの意図に近いのではないか、と考えたのです。
この庭の集まりは何度か持つことができ、そこから漂流する雑誌「シュタイナーの庭」が生まれました。この雑誌の理念は固定された中心がないことで、自分が発行人になりたい人は名乗りをあげれば、その人のいる場所が編集部となり、出版局となります。当時はまだインターネットがそこまで普及していなかったため、編集人は送られてきた原稿をコンビニなどでコピーして一冊に綴じ、回ってくる宛名シールを使って参加者たちに送ります。この雑誌も数年間続きました。この「シュタイナーの庭」は、ぼくにとっては本当にワクワクするような大切な試みでしたが、躓きは名簿の扱いを巡って起こりました。名簿を管理してくださっている方がいて、毎回その方が宛名シールを次号の編集人に送ってくださっていたのですが、ぼくの考えは名簿自体も本当に漂流すべきだというものでした。つまり誰か特定の人が管理するというのではなく、管理者が毎回変わってこそ本当の中空構造が生まれるのではないか、と思ったのです。確かに一箇所で名簿が管理されれば安心ですが、それが漂流することによって本当に一人ひとりの意識的な参加が促され、信頼が形成されるのではないかと思いました。この試みはぼくの中では憲法9条のもつ危うさと新しさにも繋がるものでした。しかしこれはかなり抽象的な議論となり、本当の結論には至らないまま、1号まるまるその議論に費やされる中で当初の熱意やエネルギーが失われたように思います。
同時にぼくが考えていたのは、そのような代表者を持たない集まり、すべての参加者が代表者であるシュタイナーの庭としてゲーテアヌムに繋がることはできないか、ということでした。この「庭」のイメージについては雑誌「ゲーテアヌム」や「Info3」にもドイツ語で発表し、肯定的な反応を得ていたことで、試してみる価値があると感じていました。そして、当時ゲーテアヌム理事会に入って間もないパウル・マッカイ氏や、医学セクション代表のミヒャエラ・グレックラーさんと話し合いました。この時のミヒャエラさんとの話し合いが、ぼくにとっては大きな転機になりました。彼女は「シュタイナーの庭は純粋に精神次元の集まりであり、法的領域には降りてきていない」と言ったのです。そこでぼくは、自分自身で納得できるような「地上的」なグループのあり方を模索することになりました。
ちなみに、2000年には上松佑二氏を代表とするアントロポゾフィー協会がゲーテアヌムによって正式に邦域協会として承認されました。これは父の側のグループがゲーテアヌムとの連絡を一切絶ってしまったことから、やむをない展開でもあったのですが、少なからぬ人々にとってまるでゲーテアヌムが一方の側についたかの印象を与えてしまいました。ぼくはドイツ語と日本語でシュミット=ブラバント氏に公開質問状を書き、それを雑誌「シュタイナーの庭」にも掲載しましたが、この時点でシュミット=ブラバント氏は既に病床にあり、翌年には亡くなられたため、お返事をいただくことはありませんでした。ただこのとき自分が書いた内容は、次に進むための基盤になりました。ミヒャエラさんは設立されて間もない上松さんの邦域協会に「シュタイナーの庭」として加わるべきだと言いました。けれども、その時点でただそうすることは高橋巖氏か上松佑二氏のいずれかの側に加わるという図式を脱することができないと思いました。そこで、ぼくはいったんアントロポゾフィー協会を脱退し、新たに入会するに当たって上松氏と高橋巖氏の両方の署名を求めるという形式を思いつきました。それを「グループNOA」と名づけ、賛同者を募ったところ、60名以上の人から連絡があり、その中の多くの方がいかに日本における分裂によって自分のアントロポゾフィーやゲーテアヌムとの関係が損なわれてしまったか、ということを書いてくれました。そこでゲーテアヌムと交渉を続けながら、シュタイナーの「協会員への手紙」や「アントロポゾフィー指導原理」(のちにブログで発表したり、『シュタイナーが協会と自由大学に託したもの』というタイトルで本にまとめたもの)を共有しながら、グループ設立の準備を続けました。このときは実際にゲーテアヌムまで出かけて、マッカイ氏と話し合うところまでいったのですが、ある時点で「これはうまくいかない」と思うようになりました。そして「グループNOA」の準備会も「シュタイナーの庭」も、ぼくの方から明確な意思表示をすることなしに立ち消えになってしまいました。
「うまくいかない」と思ったのは、今まで言葉にしてこなかったのですが、結局は自分がある方向に強引に引っ張ればうまくいくかもしれないが、本来自分が求めていたはずの、具体的な人々の内側から出てくるものを引き出し、それを基盤として何かを構築するということには至らない、ということだったのだと思います。これは後でも書きますが、今でも自分の中では未解決な問題として残っています。大げさな言い方をすれば、シュタイナーのいうところの「根本問題」でしょうか。
その後、ぼくは必要に迫られ、母が経営していた私立幼稚園を引き継ぐことになり、その流れで「日本シュタイナー幼児教育協会」の運営委員に加わり、その後、同協会の代表を引き受けることになりました。学校法人と一般社団法人という二つの世俗的な組織の代表を引き受けることで、「シュタイナーの庭」とは正反対の組織のあり方を経験したわけですが、その中でゲーテアヌムにまつわる一つの問題を自分なりに実感をもって考察できるようになりました。それは10年以上前にいわばスキャンダルのようにして取り上げられた「クリスマス会議のアントロポゾフィー協会」と「建物協会としてのアントロポゾフィー協会」のことです。
シュタイナーが設立したアントロポゾフィー協会は、その会則にも明記されているように、クリスマス会議に集まった800人の人々を基盤とし、その礎石は物質的な石ではなく「愛の礎石」という瞑想の言葉として、人々の心に沈められました。この協会に入会するのに条件はほとんどなく、ゲーテアヌム自由大学のような組織の存在をよしとする人で、「ゲーテアヌムと結びついていることに居心地のよさを感じる人」であれば誰でも会員になることができます。そして、「除名」という条項は会則の中にはありません。一方、ゲーテアヌムという建物は物理的な土地の上に建設され、それは1つの財産として管理運営されなければなりません。その役割を担う団体がやはり「アントロポゾフィー協会」という名称でスイスの民法に則った社団法人として存在していたのです。それは世俗的な組織として当然のように除名条項を会則の中にもっていました。この二つの、目的も性質も異なる組織がシュタイナーの死の直前に統合されたのです。そこにはシュタイナーの署名もありましたが、果たしてこの統合がシュタイナーの本意だったのか、その後もずっと議論され続けてきました。確実なところは今のぼくにはわかりませんが、1935年にイタ・ヴェークマンやエリザベート・ブレーデが除名されたのは、おそらく建物協会の会則によってであろうと思われます。なぜならクリスマス会議の協会からは、本来誰も除名されることはないからです。
最近になって(といっても2000年以降だったと思いますが)、ゲーテアヌムは建物協会とクリスマス会議の協会を正式に統合し、これを巡って訴訟まで起こる大きな事件に発展しました。シュタイナーの庭に関わっていた当時、ぼくはこの問題に関する資料をいろいろと集め、この議論の急先鋒だったアッハベルクのヴィルフリート・ハイト氏と意見交換をしたりしていました。ハイト氏は、ヨーゼフ・ボイスと共に社会三分節化運動を展開したことで知られる伝説的な人物でした。しかし、2000年を過ぎた頃のぼくは、もはやこの問題に強い関心を寄せることはできませんでした。この地上の様々な利害関係の中で組織として成立するためには、ゲーテアヌム理事会がとった措置はやむを得なかったと思いますし、それがミヒャエラさんが「シュタイナーの庭は純粋に精神次元にとどまっている」と言った意味だったのだろうと思います。しかし、他方で、そのような地上的な組織においてこそ、シュタイナーの社会三分節化が意識的に実践されなければ、本来目指していたはずの目標が見失われてしまうでしょう。それではぼくたちが共通して目指していることとは何なのか。この頃からぼくはその理想を「子ども時代」として捉えるようになりました。子ども時代というのは、生まれてから3歳くらいまでの歩行、言語、思考の学習を基盤として、一人ひとりの個性もしくは自我(主体性)が出現していく過程です。ぼくたちの共通の目標は、一人ひとりが自分らしく生きること、そしてそれが可能となる社会を形成していくことではないでしょうか。その原点は「子ども時代」の中にあると思いました。
2011年の大震災と原発事故があった後、アントロポゾフィーに関わる様々なグループの人たちが一堂に会する機会があり、そこでぼくは「コリスコ会」というネットワークを提案しました。コリスコという名称は、シュタイナー学校の最初の校医であり教師でもあったオイゲン・コリスコ医師に由来していますが、彼が身をもって追求した「医学と教育の連携」を共通理念として、医学や教育その他の職業グループの連携を図ろうとしたのです。一番の現実的な目的は、海外から送られてくる寄付金の信用に足る受け皿をつくることでした。日本ではグループが分裂しているという状況をそのままにしておくのではなく、様々な職業グループが立場の違いを越えて「コリスコ会」を形成できれば、その信用において、海外に向けても個々の活動の素性や信用を保証することができると考えたのです。そのために簡単な規約をつくり、話し合いを重ねました。しかし、ここでも先ほどの、ぼくにとっての「根本問題」が躓きの元となりました。ぼくは異なる職業グループが一致できるところとして、子ども時代や教育と医療の連携を考え、そのためにコリスコ会という名前を提唱したのですが、そこに参加する人たちの中には、自分たちの活動は必ずしも子ども時代とは関係ないと感じる人たちもいました。その際、ぼく自身がイニシアチブと責任感を発揮して力強く推し進めれば、コリスコ会は正式に誕生したかもしれません。しかし、それでは参加するすべてのグループの対等な関係が保証されないような気がしました。ぼく自身が退くことによって、会も当然立ち消えていくことになり、真剣に関わってくれた人たちの中には、大きく失望した人もいたかもしれません。
その後、2016年に日本シュタイナー幼児教育協会の代表を退く決意をしたときにも、ぼくの中にはこの「根本問題」が解決されないままにのしかかっていたような気がします。幼児教育協会では、医学と教育の連携を含めかなり自分のイニシアチブを発揮させてもらいましたが、それがどこまで共有されていたかは確信がもてませんでした。何よりも自分が身を引くことによって新しい風が吹くべきだという思いがあったのですが、同時に、アントロポゾフィーの中に自分が見ているものと、それを推し進めていくことへの躊躇いのようなものが、ぼくの中でせめぎあっていました。ちょうどその時期、日本におけるアントロポゾフィー協会を一つにしようとする動きが始まり、ぼくも当初は参加して、上松さんご夫妻を含む数人の人たちと熱心に話し合いを始めました。そこでもぼくが最終的に引いてしまったのは、自分の理解や考えを押し通すことへの躊躇いがあったのだと思います。
今ぼくは、自分がこのブログの一回目の文章で引用したシュタイナーの言葉を思い起こしています。「私たちはこの根本問題を、自分たちの心の中で解決しなければならない」という言葉です。ぼくも結局は、個と公共、秘教性と公共性という矛盾を自分の中で乗り越えることができずにここまで来たのだと思います。しかし、今、アントロポゾフィー協会の中に存在する問題はすべて、この根本問題から発しています。精神運動の指導者は、純粋に精神生活の領域に属しています。その人が、世俗的な組織のメンバーになるということは、平等を原則とする法律の領域に介入することになります。ましてや霊的指導者が組織の代表になるとき、個の「自由」が公共の権力に変わるのです。しかし、それでもあえてシュタイナーが「会長」を引き受けたとき、彼は徹底して「相互の認め合い」すなわち本当の意味での「経済原理」を協会の基盤に据えようとしました。そして、その経済原理を成り立たせるために、一人ひとりの自立を強めようとしたのです。それが「精神科学自由大学」です。この自由大学への入会の3条件は、クリスマス会議におけるシュタイナー自身の決意を引き継ぐものです。アントロポゾフィーへの責任、アントロポゾフィーへの努力、アントロポゾフィーにおける連帯。そこには社会三分節の自由、平等、友愛の原理がそのまま生きています。
第1に、私たちは「世界を前にアントロポゾフィーを代表する者」として自覚を問われます。それはいわば「アントロポゾフィーの社会」の市民としての自覚であり、そこでの立場は完全に平等です。
第2に、アントロポゾフィーへの取り組み、または霊的探求への努力が問われます。それは一人ひとりの精神生活に関わることであり、そこでの努力が自分自身の活動の可能性を拓いていきます。ここでの一人ひとりの立場は完全に自由です。
第3に、アントロポゾフィーに関わる他の人々との連帯への決意があります。これが霊的な経済活動であり、お互いの違いに目を向け、関心を寄せ合うということです。そこに友愛が働きます。
アントロポゾフィー協会は、完全に公共的であり開かれているので、縁あってそこに遭遇した人であれば、誰でも会員になることができます。これは縁あって、どこかの社会に生まれ落ちた人が、本来は自動的に市民権を与えられるのと同じことです。大人になって、もうこんな国にはいたくないと言って海外へ亡命するのでなければ、その市民権が剥奪されることはありません。これは先に述べたように、「ゲーテアヌムと結びついていることに居心地のよさを感じる人」であれば誰でも会員になることができるということと重なります。
しかし、私たちがたとえば日本国憲法について学び、いわば自分自身のあり方を通して日本を代表しようと決意することができるように、アントロポゾフィーについてもその本質について考え、世界の中でアントロポゾフィーを代表しようと決意することができます。そのとき、私たちはアントロポゾフィーから恩恵を受ける立場から、アントロポゾフィーを育成する立場へと移動するのです。私たちが日本国憲法の恩恵を受けて平和に暮らしている中で、今度はこの憲法を守り活用する側に移ろうとするのと同様です。
今後、この世界でアントロポゾフィー運動が実を結ぶかどうかは、どれだけの人が上記のような認識をもって自由大学に参加するかにかかってくると思います。その際、ぼく自身が個人的にお伝えしたいことが2つあります。
一つは、アントロポゾフィー協会は特定の思想を普及するためではなく、思想、芸術、スポーツ、その他ありとあらゆる文化活動の中の「個」を応援するためにあるのだということです。ゲーテアヌム自由大学のように、自分に根拠をおき、自分自身の認識を求めて努力している人々を応援する気持ちがあれば、その人はアントロポゾフィー協会の会員なのです。これは一種の署名活動のようなもので、協会員になる人は自由大学に対して「私はあなたを応援します」と言っているに過ぎません。そしてそのようなアントロポゾフィー協会がこの世界に存在することによって、この協会は世界中の同様の努力をしている人々やグループを力づけようとしています。
もう一つは、本来の精神科学自由大学は、地球上の特定の地域にではなく、霊界にあるということです。シュタイナーはそのことを時代霊の名前をとって「ミカエル・シューレ」と呼びました。仮にこの地上で、なんらかのグループに所属することに抵抗があるのであれば、自分自身の中で、霊界に向かって、「自分は自由大学の会員になる」と宣言すればいいのです。ただし、その決意に対して、自分自身が真剣でなければなりません。地上の協会やゲーテアヌムを通して自由大学の会員になれば、それは外的な形式を伴うので、大学会員としての自覚を保つことが比較的容易です。しかし、自分で直接霊界に「入会申し込み」をしたときは、果たして霊界が受け入れてくれたのかも自分で判断しなければなりませんし、自分自身で会員としての自覚を保ち、その決意を守り抜かなければなりません。これはかなり困難なことです。それでも、自由大学に入会し、アントロポゾフィーの育成に参加することに、一切の障害はないのです。
以上は、今までぼくが自分自身に何度となく言ってきたことです。しかし、ぼくは自分の意志を貫くことができずにきました。アントロポゾフィー協会をめぐる活動に関わってくださった方々の中には、まるでぼくが気まぐれに振る舞い、無責任に退いたように思われて失望したり、裏切られたような思いを抱いた方もあったかと思います。そこにぼくの弱さや一貫性のなさがあったことは確かです。そういう方がこの文章をご覧になっているかどうかはわかりませんが、もしご覧になっていたら、心から申し訳ありませんでした、と言いたいと思います。その一方で、ぼくは自分なりに自分に正直に道を探ってきたつもりです。その時々で賛同してくださったり、支援してくださった方々がいたからこそ、何とかここまでやってこれたのだと思っています。
今、ぼくは「言語による社会形成」ということを考えています。というのも、公共と個をつなぐものは言葉だからです。歩行と思考の間にも言語があります。クリスマス会議におけるアントロポゾフィー協会の「衝動」は「愛の礎石」という言葉に込められています。太平洋戦争を経験した日本国民の決意は、日本国憲法という言葉に込められています。ここにシュタイナーが数多くの瞑想の言葉(マントラ)を遺した意味があると思います。言葉に向き合うのは、一人ひとりの私です。私が言葉に力を与えるのです。そして、その言葉はさまざまな人々によって共有されます。
アントロポゾフィー協会とはその会則と礎石の言葉を共有する人々の集まりです。そして日本社会とは、日本国憲法を共有する人々の集まりです。言葉が社会を形成するのです。
アントロポゾフィー協会の第11条と第13条に書かれているように、協会員は大小のグループを結成することができ、個々のグループは協会の会則に矛盾しない、独自の会則をつくります。実はここに、個と公共、秘教性と公共性を結合するという根本問題への、具体的な解決策が提示されていると思うのです。それは複数の人々で、共通の言葉に向き合い、そこに実質を込めていくということです。
日本社会が真に形成されるためには、市民の一人ひとりが憲法の内容に取り組んでいくことが必要です。同様に、アントロポゾフィー協会も、そこに参加する一人ひとり(特に、アントロポゾフィーの社会の発生に寄与する意志をもった一人ひとり)が、会則の内容に取り組み、また礎石の言葉の内容に取り組んで、それぞれのグループの独自の会則をつくりあげる必要があります。この会則は言葉で書かれています。したがって、たとえ最初に草案を書くのは一人ないし少数の人間であったとしても、誰もがその内容に取り組み、疑問や意見を出し合うことができます。その中で、一人ひとりが理解でき、これなら共有できると思う会則をつくりあげるのです。
その過程で、アントロポゾフィー協会の会則、また日本国憲法そのものに疑問を投げかけ、それを改正する可能性も出てくるかもしれません。しかし、さしあたり、憲法はすべての議論の土台になります。すぐに憲法そのものを変えようとするとき、その動きが警戒されるのは、特定の個人やグループの恣意的な思惑が入り込まないかと恐るからです。
憲法は、立場の違いを超えて、すべての立場が尊重される社会の土台を提供するものです。同様に、アントロポゾフィー協会の会則も、まさに「民族、地位、宗教、学問的ないし芸術的信条の違いにかかわらず」、一人ひとりの精神科学との取り組みを支えるための共通の基盤を提供しようとしています。そしてその精神を表現しているのが、「愛の礎石」の言葉です。
今、日本では、言葉があまりにも貶められています。愛国心を振りかざす政治家自身が、日本語をひどく痛めつけています。そのような状況の中で、日本でアントロポゾフィーに取り組む私たちの最も身近な課題は、言葉を通して共通理解の基盤をつくることではないかと思います。それは職場での約束事かもしれませんし、アントロポゾフィーに取り組むグループの会則かもしれません。しかし、共通の言葉を対等な立場で議論し、そこに実質を生み出していくことが、もっとも具体的な社会三分節化の実践、言語による社会形成であろうと思います。
ここから、ぼく自身も自分の次の一歩を探っていこうと思います。
2 Responses
今井重孝
(3)まで、拝読しました。以前、ゆっくり話したいことがある、と漏らされたことがありましたが、その内奥が理解できた気がしました。「シュタイナーの庭」の位置づけの意味、コリスコ会議設立の意味、クリスマス会議と協会の分裂をめぐる入間さんのスタンスなどがよくわかる気がしました。なるほど、ご自分の内面に忠実に生きてこられたのだなと思いました。「中空構造」というのは確かに理想計でしょうね。とはいえ、真ん中には、順番に交代していく役割としての代表が一応必要になるだろうなという感じはもちました。支援する組織であるというコンセプトはとても素晴らしいものだし、ミカエル・シューレのコンセプトも素晴らしいと思いました。Childhoodをキリスト衝動の本質と捉える魅力的な考え方が、誕生した経緯もわかり、入間さんの内面が見えてきた気がしました。これからの、未来の組織のあり方の方向性として首肯できる見方だと感じました。
けんしん
私は、日本人智学協会員でない者です。だけど高橋巌先生の授業に参加させていただけるのです。誰でも講座に参加できる!なんと幸せなことかと毎回嬉しくてたまらないのです。今はオーストラリア人になりましたので長く滞在は出来ませんが、日本で過ごす時は、高橋巌先生の講座を中心にして日程を組みます。私にすれば、ルドルフ・シュタイナーは高橋巌先生なのです、本読んでも体に染み込まない言葉や文章、それらの考えるヒントを高橋巌先生が差し出してくれます。先生に会えたことが私の人生の宝物なのです。会えたことが奇跡なのです。だから可能な限り講座に参加したいと思うのです。
美しい日本語、話される姿勢、命をかけた講座に感動しています